太陽がいっぱい

わたしは三億年前に死んだアンモナイトの生まれ変わりです。
何故そう言い切れるのかというと、ちゃんと記憶が残っているからです。
アンモナイトが記憶の最初で、その後の輪廻はすべて人間でした。
しかし、穴に落ちて死んだり、殴られて死んだり、人を騙してお金を奪ったりして
あまり良い人生ではありませんでした。
一度だけ、本当に人を好きになったことがありました。
その人は母親が売春婦で、父親の顔を見たことがないと言いました。
香港にかつて存在した迷宮のようなスラムで生まれ、海で狙撃されて死にました。
わたしもそのかがやかしく汚れた巨大な家で生まれ育ち、16の時にうかうかと薬漬けにされて売り飛ばされそうになっているところをその人に助け出されたのです。
あまり喋らない人でした。ふたりとも字は書けませんでした。
三億年分のすべての記憶の中で、その人の名前だけがどうしてもどうしても思い出せないのです。
ところで三億年後のいまも、アンモナイトだったわたしの体は存在していました。
NHKの朝のニュースで知りました。
堆積したわたしの殻に含まれるカルシウム成分が不純物にくっついて結晶化し
結果的にその海の透明度を高く保っているのだそうです。
明日わたしは旅に出て、その海に潜ってこようと思います。
死んだわたしの残したかけらはきっと、遂に見つからなかったあの人のからだに絡み合って、とてもきらきらしているはずです。

 

午後3時のフライト

真夜中テレビに映し出されている台風情報では、人間の姿はなく、声もせず、やすらぎのバックグラウンドミュージックがごく控えめに流れているのであるが、この画面が部屋に存在しているだけで、社畜と揶揄されがちな我々をストレスから解放する役割を果たしていることがあきらかになったのはつい最近のことである。進路情報図上にみとめられる、樹木の年輪のような線がF分の1ゆらぎの効果をもたらしているのかもしれない。 曇ったガラス玉を二つ無造作にはめ込まれた泥まんじゅうの如き人間となった自分を、卑下することもなくそのまま自然に受け入れることができるようになると、とある機関誌で報告されている。わたしは先日、ガレージを改造し広々とした空間を売りにしているカフェで、どう座り直しても上半身が傾くオレンジ色の革のソファに身を埋めながら友人からその話を聞いた。予感が現実になったのを察知し、このままではいけない!と強く思ったのと同時に非常に洗練されているふるまいをできるだけ意識しながら立ち上がった。 先週台風が直撃し、わたしの大好きな翡翠色のプチトマトが壊滅的な被害を受けたとヤフーニュースで読んだ、あの県へと向かうためにカフェを全力疾走で飛び出した。

 

darling, darling

くだらない自己顕示欲を満足させるために惰性で行っていたSNSに、非常に猥褻な行為をしている最中のボーイズラブのイラストを投稿した。こんなにも晴れ晴れとした気分になったのは、中学2年生の夏休みの、部活動の朝練を終えて帰宅する途中に感じた夏の空気の清冽さに感動して泣いたあの日以来だったことに気づいたあおいは、驚きを隠そうともせずに部屋をうろついた。 するとパソコンから、自分の投稿に誰かがコメントをしたことを知らせる音が鳴り響き、あおいはうきうきと画面を覗き込んだ。果たしてそこには、ゲス野郎生まれ直してこいといったネガティブな言葉が表示されており、コメントした人の名前を見ると、ボーイズラブにおけるカップリングの趣味が一緒であるという理由で、普段から表面的に仲良くしていた「ゆにこーんさん」だった。ゆにこーんさんは性的な表現のすべてを憎んでおり、あおいが以前軽い気持ちで、陰部の名称を織り込んだ独自の挨拶を投稿したら、陰惨な画像を「死ね」というひと言を添えてメールで送って来たことがあった。 あおいはそんなゆにこーんさんをピュアであると感じ好意を抱いたが、その画像が、あおいが大好きで毎朝食べていた惣菜パンをぐちゃぐちゃに踏み荒らしている画像であったことに目眩がするほど腹が立ち、最もたちが悪いとネットのアンダーグラウンドで囁かれているコンピューターウイルスを添付してゆにこーんさんのメールアドレスへ送り返した経緯があった。 あおいは今日のようなブルーデイのために買っておいた、チベットの寺院で焚かれているというお香に火をつけた。貴重なハーブを特殊な割合で調合してあるお香は、あおいの部屋をたちまち、チベットの寺院っぽくした。(これで何回目の輪廻転生をしたのかな。)あおいはいい感じの回廊で足を止め、いにしえの森羅万象にときめきを禁じ得ず生まれて初めての深呼吸をした。視線の先の虚空に出現したすべてを飲み込んでしまう巨大な渦のなかで、煌めきながら消えていく幾千の前世の記憶に思いを馳せた。

 

喫茶フランチェスカの日常

この喫茶店のモーニングはとても美味しい。大きな白い皿に、新鮮な高原野菜と作り立てのポテトサラダ、チーズオムレツに弾けるようなソーセージと香ばしくやわらかなベーコン、バターの加減が程よいトースト。その季節の果物。熱いコーヒー。私の隣りの席に座った男性2名もよく来るらしく、和気あいあいとコーヒーを飲んでいる。そしてスタッフに何か聞いている。「僕おなかすいてて、いっぱい食べたいんですけど、モーニングの量って増やせます?」「量は変えられないのですが、オプションでヨーグルトやゆで卵などがございます」「んーもうちょっとがっつり食べたいんやけど」「量が多めのメニューでしたら、クラブハウスサンドウィッチなどもございますが」「じゃあモーニング食べ終わってからまた注文しますわ、ありがとう」「ここはな、ちゃんとカップもあっためてくれるしな」「あーコーヒーうまいわ」
甲信越地方の田舎の片隅で関西弁を聞くのは新鮮で、ついつい聞き耳を立て…なくても声がでかいので筒抜けである。
店内は特にこだわりを感じさせるような内装では無いが、広すぎず狭すぎずといった奥行き感がちょうど良く、特別なことをしているとはまったく感じさせないけれど、「どこか」ではあるといった程度の空気がある。北海道だろうか、雪に埋もれた木々の写真がおさめられた小さなフォトフレームを眺めると、低血圧のだるさを少しだけ忘れた。
喫茶フランチェスカの朝は過ぎてゆく。

 

ナチュラル・フォース・14

ふみちゃんのヘアピンは青くて白い水玉模様が入っていて、見る度にかわいいなあわたしも欲しいなあと思っていたのだが、あのヘアピンはどうやらある新興宗教が信者に配布しているバッジらしいということをひなたちゃんから聞いたのは、今朝のホームルームが終わった後ーー毎朝おなじみの低血圧で気分が優れず、 今日という今日はすっかり何もかもが嫌になってしまったので、解決できないくせにいじめについてもったいぶった持論を正義面で展開した教師を、空想の中でさんざん嬲りものにしている最中のことだった。 その時のわたしの感想は、それが本当ならその新興宗教に入信したいという内容のものだ。誰もが笑顔で踊り出さずにはいられないような御機嫌な夏の青空に、ポップな形の雲が規則正しく何だかリズミカルに配置されている、あんなにかわいくて大胆それでいて永遠の清らかさを湛えたヘアピンには、まずお目にかかれない。 それに、そうだ、あんなに素敵なデザインを考える人が関わっているような団体であれば、そのデザインの精神と何かしら共通点を持っているような新興宗教団体である可能性が高いのではないか。わたしはただ夏の太陽の光をいっぱい浴びて、青空の下で笑いたいだけなのだ。こんな陰気な強制収容所で、くだらない大人に暇つぶしの教養を身につけさせられたくなどない。わたしは自らの生存する時間の一瞬も無駄にしたくはない。椅子の転がる音がした。わたしはふみちゃんの背後に立ち、その青空に手を伸ばした。

 

Heavenly Blue

ライブで着る衣装のワンピースを、ミシンを持っていないために手縫いすることを安易に計画し現在実行しているひなたは、その計画があまりに楽観的に過ぎ杜撰極まりなく、そもそも自らの精神が実年齢よりも幼稚であることをうすうす思い知りはじめていた。おおよその計算でそれは3時間程度で仕上がる予定だったが、夜9時から手縫いを開始、深夜ラジオを新鮮な気持ちで楽しく聴けていたのがその3時間だった。ひなたの集中力は3時間が限界であったため、その後は手縫いという作業の原始的な動作が、殴り殺されている途中のような精神的苦痛をひなたに与え続けていた。仮にミシンを使っていたならば、時間がかかったとしても機械の不調のせいにすることは容易く、ミシンと意思疎通はできなくともこの事態を共有しているかのように感じることはでき、うまくいけば機械と人間の織り成す愛憎劇から誰が想像し得たであろう感動のラストシーンへと誘われるハートフルヒューマンドラマに逃避することも可能であっただろう。だが、今日の昼から始まるライブのリハーサルまでにこの衣装を手縫いで完成させることができるのは今、この部屋に自分ひとりしかいないのだった。東の空が神秘的な色を帯び、ひなたの人生における精神的自立の萌芽がみとめられた、記念すべき一日のはじまりを告げていた。